2015年3月3日

進化論の総合なんてなかった Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life”

 科学史家のプロヴァインは、『理論集団遺伝学の起源』(1971)を著し、また『進化論の総合――生物学の統合についての視点』(1980)をマイアと共に編集するなど、進化論の総合に関する歴史研究の第一人者として知られてきました。しかし1988年頃からプロヴァインは主張を転換し、進化論の総合なんてなかったという主旨のことを言うようになります。今回紹介する論文は、ジュリアン・ハクスリーに関する論集に収録された一本ですが、そのようなプロヴァインの新しい主張がはっきりと示されています。

William B. Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life,” in C. Kenneth Waters and Albert Van Helden, eds., Julian Huxley: Biologist and Statesman of Science (Houston: Rice University Press, 1992): 165–180.

 T・H・ハクスリーが進化のプロセスを非道徳的なものとみなし、倫理の基盤にしようとは考えなかったのと異なり、その孫のJ・ハクスリー(以下ハクスリー)は進化を、人間存在に希望や意味を与える進歩的な過程とみなした。特に1910年代前半には、進化を目的のあるものとみなしていたようである。『進化――現代的総合』(1942)の最終章「進化的進歩」では進化的進歩を、生物学的効率や環境のコントロール、環境に対する非依存性、機能効率、内部調整といった言葉で定義した。ハクスリーの考えでは、更なる進歩の可能性を秘めているのは人間だけである。この本では、進化に目的があることは否定している。

 ここで「進化論の総合」ということについて考え直してみたい。総合に関わった生物学者たちのほとんどが、総合に対する自分の貢献が過小評価されていると訴えている(マイア、ライト、ハクスリー、シンプソン、ウォディントン、ステビンズ、ドブジャンスキー、フィッシャー、フォード、ゴールドシュミット、ダーリントン、マラー、レンシュ、チモフェーエフ゠レソフスキー)。エルドリッジ、グールド、木村ら若い世代の進化学者の議論を見ても、総合に関する見解の不一致は著しい。しかし、とにかく「1930年代から1940年代にかけて進化生物学に何か重要なことがあった」という点では誰もが一致している。
 進化論の総合が何ではなかったかを考えてみると、第一に、それは総合と呼べるようなものではなかった。メンデル遺伝と遺伝子頻度を変化させる様々な要因との総合は確かにあったが、それを成し遂げたフィッシャー、ホールデン、ライト、ホグベン、チェトヴェリコフらは実際の進化のプロセスについて激しく論争していた。この真の総合の後に行われたことは、分野間の障壁を取り除き、コンセンサスを偽造することであり、ごまかしに満ちていた。マイアや哲学者のDudley Shapereらはこれを総合として特徴づけようとしたのである。第二に、総合は新しい発見や概念や理論によって特徴づけられるものではなかった。フィッシャーの自然選択の基礎理論、ライトの平衡推移理論や適応度地形、マイアの創始者効果、ウォディントンの後成的地形(epigenetic landscape)、マラーのラチェットなどは、それを中心に総合が形成されたと言えるようなものではない。第三に、総合は自然界における進化のメカニズムについての合意によって特徴づけられるものでもなかった。実際の進化において、どのようなメカニズムが重要かについての論争は尽きなかったのである。
 総合について考え直す上でヒントとなるのが、フランスの生物学者ドラージュ(Yves Delage)の事例である。ドラージュのL’Hérédité et les Grands Problèmes de la Biologie Générale(1894)は、さまざまな遺伝理論についての分析をまとめた大著であり、好評を博した。そこで1903年に第二版が出版されたのだが、これはその後の遺伝学者たちからまるっきり無視されることになった。メンデルの再発見(1900)により、数々の遺伝理論(たとえばドラージュが51ページ分を割いた、ネーゲリのイデオプラズム理論)がその価値を失い、ドラージュの本はいきなり時代遅れになってしまったのである。一方、こういった数々の遺伝理論はそれぞれ、自然選択以外の何らかの進化メカニズムについての理論と結びついていたのだが、それらはメンデルの再発見を生き延びた。自然選択に対する拒絶の背景には、非目的的で日和見主義的なメカニズムに対する嫌悪があった。
 総合は、このようにして過剰に存在した進化メカニズムについての理論の大量絶滅であり、進化のプロセスに関係する変数の大規模な切り落としであった。集団のサイズや構造、遺伝的浮動、ヘテロ接合性の度合、突然変異率、移動率などについて論争することはあっても、それらが重要になり得るという認識では一致しており、目的論的な力は働いていないという認識でも一致していた。それは「進化論の総合」というより、「進化論の収縮(evolutionary constriction)」と呼ぶべき出来事であった。1940年代後半から50年代にかけて進化生物学が選択主義者的解釈に「硬直化」したというグールドの説には賛成できる。それは進化論の収縮の更なる収縮といってもいいだろうし、進化論の収縮の硬直化といってもいいだろう。

 ハクスリーの『進化――現代的総合』は、この「進化論の収縮」説の完璧な例である。それは収縮された変数のセットについての議論であったが、それらを消化し総合する議論ではなかった。ハクスリーを悩ませた課題は、目的なしに進歩を説明することであった。祖父のT・H・ハクスリーは進化が倫理の基盤にならないと論じたとき、ユダヤ・キリスト教の伝統に立ち返ったが、J・ハクスリーはすでにユダヤ・キリスト教の伝統を見限っていた。
 このように考えてみると、ハクスリーがテイヤール(Teilhard de Chardin)の『現象としての人間』(1955、英訳1959)を擁護した理由がわかる。テイヤールの目的論的な進化観はほとんどの進化生物学者には馬鹿馬鹿しいものとして映り、シンプソンらはこの本をこき下ろした。しかしハクスリーと、信仰心の厚い人物であったドブジャンスキーがテイヤールを擁護した。ハクスリーとドブジャンスキーは、進化に目的など無いことを知りつつも、進化が人生に(目的を有する進化が提供していたような)意味を与えてくれることを望んでいた。進化に目的があった時代、そこには本当の進歩があり得たが、進化論の収縮がその望みを終わらせたのである。

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